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初詣と歴史散策(淡路町界隈) [歴史探訪]

今年の初詣は烏森神社(新橋)、神明社(柏市)、と今回の神田明神で3回目となりました。
私の場合、初詣と歴史探訪も兼ねた参拝なので、毎年いろんな神社へ初詣しています。
今回の散策で最初に訪れた所は神田明神です。さすが有名な神社だけあり境内は満員状態でした。それでも、動きはあり約30分で参拝を済ませ次へと向かった。

神田明神は社伝によると、天平2年(730年)、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀ったのに始まる。神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建され、神田ノ宮と称した。 承平5年(935年)に敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国の平氏武将の崇敬を受けた。嘉元年間(1303年 - 1306年)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に当社の相殿神とされた。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれる。 江戸時代、江戸城増築に伴い現在地に遷座した。江戸城の鬼門除け、江戸総鎮守として尊崇され、神田祭の山車(当時は山車が中心だったが、明治に入ると電線の普及等により山車の数は大幅に減少した)は将軍上覧のために江戸城中に入ったので、一名「天下祭」とも言われ、江戸三大祭りの一つと言われる。現在「神田囃子」は無形文化財に指定されている。江戸初期に豪華な桃山風社殿が造営されたが、1923年の関東大震災で焼失した。その後再建され、1945年の東京大空襲では本殿・拝殿などは焼失を免れた。 明治元年、准勅祭社に指定されたが、明治7年、明治天皇が行幸するにあたって、天皇が参拝する神社に逆臣である平将門が祀られているのはあるまじきこととされて、平将門は祭神から外され、代わりに少彦名命が大洗磯前神社から勧請された。平将門神霊は境内摂社に遷されたが、戦後昭和59年(1984年)になって本社祭神に復帰した。 また、野村胡堂の代表作「銭形平次捕物控」の主人公・銭形平次が当神田明神下の長屋に住居を構えていたという設定から、敷地内の本殿右手横に「銭形平次の碑」がある。銭形平次は架空の人物である。 伝説 に神田明神を崇敬する者は成田山新勝寺を参拝してはいけない事と云われている。これは当時の朝廷から見て東国(関東)において叛乱を起した平将門を討伐するため、僧寛朝を神護寺護摩堂の空海作といわれる不動明王像と供に現在の成田山新勝寺へ使わせ平将門の乱鎮圧のため動護摩の儀式を行わせた。即ち、成田山新勝寺を参拝することは平将門を苦しめる事となるので、神田明神崇敬者は成田山の参詣をしてはならないとされている。 なお、同じく平将門を祭神とする築土神社にも同様の言い伝えがあり、成田山へ参詣するならば、道中に必ず災いが起こるとされた。平将門に対する信仰心は、祟りや厄災を鎮めることと密接に関わっていたのである。

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神田明神からJR淡路町駅方面、聖橋手前左手に湯島聖堂がある。

湯島聖堂はもともと、徳川幕府の儒臣林羅山が、1963年(寛永9年)上野忍ヶ岡の廷内に孔子廟を建てて、尾張家の始祖徳川義直がこれを援助して、孔子の聖像と願子・曽子・思子・孟子の四賢像や祭器等を寄付して「先聖堂」の扁額を書いて渡したのが、始まりだそうです。その後、幕府による大改築の後、1690年(元禄3年)5代将軍綱吉により、廟殿を神田台(現在の湯島)に移し、先聖殿を大成殿と改称し、大成殿及び付属の建物を聖堂と総称したそうです。建物全体を朱塗りにして青緑に彩色。また杏壇門の脇に杏数株を植えたそうです。3度の江戸の大火、関東大震災の後、1935年(昭和10年)に復興聖堂竣工式が行われ、木造であった建物を鉄筋コンクリート作りにし、大成殿は建物内外を黒色のエナメルペイント塗りとし、屋根には入母屋作りの両端に青銅製の鬼犹頭・鬼龍子を設置。 資料として、以下のページを参考にさせてもらいました。 湯島聖堂及び斯文会による湯島聖堂略歴です。

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湯島聖堂を後にし聖橋を渡るとニコライ堂が見えてくる。

ニコライ堂(にこらいどう) [ 日本大百科全書(小学館) ] 東京都千代田区駿河台(するがだい)にある日本ハリストス正教会教団の本会、また東京復活大聖堂の通称。1884年(明治17)3月に着工、91年3月8日完成・成聖式(開堂式)。それを伝える翌日の新聞記事のなかに「ニコライ堂」とあることから、当初から日本ハリストス正教会の創始者であるロシア人宣教師ニコライにちなんで、この呼び名がつけられていたと考えられる。聖堂の原設計はペテルブルグのシュチュールポフで、実施設計はイギリス人のコンドルといわれている。施工者は長郷泰輔(ながさとやすすけ)。れんがおよび石造、銅板葺(ぶ)き。ビザンティン様式の教会形式を日本に伝え残した貴重なもの。1923年(大正12)の関東大地震で鐘楼が倒れ内部が焼損したので、27年(昭和2)から修復工事(1929完成)。設計者は岡田信一郎で、ドーム、屋根の形、内部が変わったが、窓枠以外の壁体はほとんど当初のままである。1962年(昭和37)国の重要文化財に指定された。

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ニコライ堂を右に見ながら、小川町~神田へと歩き神田の安酒場で一杯となった。
本日も充実した一日でした。
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コメント 4

メイジ

湯島聖堂とか築地の本願寺のような
「古来のデザインでありながら中途半端に新しい」建物は
妙な魅力がありますね(*^_^*)
by メイジ (2010-01-10 11:59) 

八犬伝

あっ、私も昨日の14時過ぎに神田明神に行きましたよ。
凄い混んでいましたね。
by 八犬伝 (2010-01-10 16:55) 

弁慶

歴史探訪を兼ねての神社巡り、良いですね。
結構中身を知らないでお参りしていることが多いので
勉強になります。

by 弁慶 (2010-01-10 17:17) 

マイクタッキー

メイジさん こんばんは
nice&コメントありがとうございます
築地本願寺は行ったことが無いので早速参拝してきます。

八犬伝さん こんばんは
nice&コメントありがとうございます
そうですか、私も確か2時半から3時あたりでした
お会いしているかもわかりませんね

弁慶さん こんばんは
nice&コメントありがとうございます
宗教行事がメディアや商業により混乱していますから少しでも予備知識を持って
おればと思っています
by マイクタッキー (2010-01-11 00:31) 

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